源頼朝はなぜ「鎌倉」を目指したのか?当然偶然で無く、何らかの思惑があったに違いない。こう思うと、頼朝の「鎌倉行き」を調べていくうち面白くなり、寝ていられなくなった。『吾妻鏡』に書かれている「鎌倉は一寒村であった」のに何故?
1160年2月、平治の乱で父源義朝が破れ、頼朝(13才)三男は一命を許され、伊豆へ流罪となった。1180年8月17日、北条一族ら同士(約50名)と伊豆国目代・山木兼隆屋敷に夜襲をかけ挙兵した。同年8月23日石橋山合戦に破れ、真鶴港(8/28)から安房国(8/29)へ敗走した。しかし、房総半島を北上しながら同士を集め、安房・上総・下総・武蔵と東京湾を左廻りし鎌倉(10/6)へ入った。そして平家政権を打倒し鎌倉幕府を開いた(1192年7月12日)と言われているが、何故?鎌倉か。
次回をおたのしみに!