謎の人物・染屋時忠の拠点は? - 神奈川の活力ある地域社会ブログ

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2017年03月15日 [みらい夢]

謎の人物・染屋時忠の拠点は?

前回に登場した謎の人物、染屋時忠の実家・本拠地を追及してみました。
『東大寺要録』に時忠は漆屋太郎大夫時忠となっている。漆部は漆部直伊波という人物が、神護景雲2年(762年)に相模宿禰姓を賜り相模国造に任じられている。そこで相模国の漆部氏について調べる事にする。時忠(漆部氏)のキーワードは、漆窪・長者窪(久保)・大夫・白山神社・染屋であり、なかでも漆窪・長者窪(久保)・大夫に着目し、神奈川県(相模国)内の地名(旧字名)を調べる事にしたが、『東大寺縁起絵巻』に良弁(時忠の子)は相模国大住郡漆窪の出身と書かれているので、大住郡(平塚・伊勢原)の地名(旧字名)を調査した。
(天平15年743 秦井出乙麻呂が相模守に任命)
鎌倉の漆窪・長者窪(久保)は前回報告したので、ここでは大住郡の調査結果を記載する。
大住1
大住郡の字名、漆窪・大夫窪は赤丸の位置だが、明示した住所は下記に示す。
1.旧字名:漆窪…北矢名970-1000    時忠の邸宅などの跡
2.旧字名:大夫窪…北矢名61-203    時忠の邸宅などの跡
3.白山神社(曽屋)…秦野市曽屋5267    鬼門除けライン
4.白山神社(上粕谷)…伊勢原市上粕谷2496 鬼門除けライン
5.龍泉寺…伊勢原市子易214     時忠の墓所(728)
6.比々多神社…伊勢原市三ノ宮1472  国府の説有り・時忠が勧進した
 ここで注目されるのが、白山神社(配下の秦氏の守護神)で鬼門除けをしているのが明らかで、この地が染屋太郎大夫時忠の本拠地であると確信した。当時の時代背景から、染屋時忠は秦氏を配下におき製鉄・織物・漆塗・稲作等全ての産業を支配して巨額の富を築いていたと想像できる。大山信仰の南面の麓で、子の良弁が創建した大山寺も近くであり、比々多神社(三宮)は良弁が勧進した神社で国府の説もある。
 そこで古代の道、古道の歴史をたどる事にし、日本武尊の東征(71-114)の道・飛鳥、奈良、平安時代の古道と、延喜式神名帳(927)に記されている内社、駅馬制を加味した地図を作成し下記に示す。
大住2     (相模川の渡し3ケ所は江戸時代のもので無視する)
 古道は日本武尊の東征道(点線)・飛鳥奈良時代古道(大点線)・平安時代の古道(太実線)、駅馬制の箕輪駅、延喜式神名帳(927)に記されている阿不利神社・比々多神社・高部屋神社・小野神社・前鳥神社・寒川神社の六社が、この狭い8km圏内に位置する事が判明した。この図を見て当時を想像すると、どうでしょうか?誰もが箕輪駅を中心にした大都市が形成され、多くの人々が往来し繁栄していた様子が想像できる。
 『大津本・大山縁起絵巻』に龍泉寺(伊勢原市子易)の明治初年頃の寺域の絵図に「染矢時忠墓」の石塔が描かれている。当時のお墓は山津波で失われている。しかし「子易」という地名は、良弁の幼児の頃の話を伝えるもので、近くに這子坂の地名もあり、かつては草堂があり「大山麓子易祖母山子育大日如来」が祀られていた(『相模大山』による)と言われ「時忠・良弁」伝承の真っ只中の土地である。
 以上が『東大寺縁起絵巻』に記される相模国大住郡漆窪、時忠・良弁親子が生まれ育った実家とする根拠である。そして和名類聚抄(承平年間931-938)にある、大住郡国府はこの地とも確信するのである。
如何でしたか?歴史にうとい素人の行き着いた結論ですが、お読み頂いた方々のご意見はどの様でしょうか?
歴史って中々面白いものですね。
 次回は未だハッキリしない相模国の国府は?を、歴史に素人の見聞で追及してみますのでご期待?ください。
あっそうだ!!
 この地域の自然環境・伝説等付け加えておきますが、この地域の注目すべきは花水川流域の金目川、鈴川に挟まれた地域であるので、生活水の水源は二流域を確保し、生活空間の危機管理を備えた地域である事。そして海への交通路を確保し、大磯浜には船着場があったに違いない。そこは古代渡来人が上陸した伝説があり、大磯には高麗山(湘南平)の地名や麓には渡来人が居住していた跡が確認されている。そして花水川を遡り、生活水や稲作に適したこの地、北矢名周辺に住み着いたと推測できる。
 大磯には千手観音観音像が出現し、花水川から金目川源流の蓑毛にある大日堂に五智如来像が安置されているが、この像は五大尊の代替とされていて五大尊は平将門が反乱を起こす際持ち去ったとされる。大日堂を管理している宝蓮寺縁起の記述に基づき、江戸時代に秦川勝の石碑が建てられた。石碑には応神天皇十五甲辰年(284)に秦の子孫が唐から渡来し、当山を安んじて守護し、ここに住んでこの里の名を秦と称した。後の子孫秦川勝と言ったところが書かれている。
 染屋姓についても一言、染屋姓は寺社資料や近世文書などから、近世中期以降、染矢姓に改めていて、神奈川県愛川町半原細野地区に居住している。染矢氏は千数百年もこの地に住み続けた旧家で、戦国時代末期より明治維新まで代々が名主をつとめ、近代でも村長や郡議会議員などを輩出している。
長々と持論を展開して申し訳ありませんでした。
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