みらい夢 - 神奈川の活力ある地域社会ブログ

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2017年08月19日 [みらい夢]
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2017年03月15日 [みらい夢]
前回に登場した謎の人物、染屋時忠の実家・本拠地を追及してみました。
『東大寺要録』に時忠は漆屋太郎大夫時忠となっている。漆部は漆部直伊波という人物が、神護景雲2年(762年)に相模宿禰姓を賜り相模国造に任じられている。そこで相模国の漆部氏について調べる事にする。時忠(漆部氏)のキーワードは、漆窪・長者窪(久保)・大夫・白山神社・染屋であり、なかでも漆窪・長者窪(久保)・大夫に着目し、神奈川県(相模国)内の地名(旧字名)を調べる事にしたが、『東大寺縁起絵巻』に良弁(時忠の子)は相模国大住郡漆窪の出身と書かれているので、大住郡(平塚・伊勢原)の地名(旧字名)を調査した。
(天平15年743 秦井出乙麻呂が相模守に任命)
鎌倉の漆窪・長者窪(久保)は前回報告したので、ここでは大住郡の調査結果を記載する。
大住1
大住郡の字名、漆窪・大夫窪は赤丸の位置だが、明示した住所は下記に示す。
1.旧字名:漆窪…北矢名970-1000    時忠の邸宅などの跡
2.旧字名:大夫窪…北矢名61-203    時忠の邸宅などの跡
3.白山神社(曽屋)…秦野市曽屋5267    鬼門除けライン
4.白山神社(上粕谷)…伊勢原市上粕谷2496 鬼門除けライン
5.龍泉寺…伊勢原市子易214     時忠の墓所(728)
6.比々多神社…伊勢原市三ノ宮1472  国府の説有り・時忠が勧進した
 ここで注目されるのが、白山神社(配下の秦氏の守護神)で鬼門除けをしているのが明らかで、この地が染屋太郎大夫時忠の本拠地であると確信した。当時の時代背景から、染屋時忠は秦氏を配下におき製鉄・織物・漆塗・稲作等全ての産業を支配して巨額の富を築いていたと想像できる。大山信仰の南面の麓で、子の良弁が創建した大山寺も近くであり、比々多神社(三宮)は良弁が勧進した神社で国府の説もある。
 そこで古代の道、古道の歴史をたどる事にし、日本武尊の東征(71-114)の道・飛鳥、奈良、平安時代の古道と、延喜式神名帳(927)に記されている内社、駅馬制を加味した地図を作成し下記に示す。
大住2     (相模川の渡し3ケ所は江戸時代のもので無視する)
 古道は日本武尊の東征道(点線)・飛鳥奈良時代古道(大点線)・平安時代の古道(太実線)、駅馬制の箕輪駅、延喜式神名帳(927)に記されている阿不利神社・比々多神社・高部屋神社・小野神社・前鳥神社・寒川神社の六社が、この狭い8km圏内に位置する事が判明した。この図を見て当時を想像すると、どうでしょうか?誰もが箕輪駅を中心にした大都市が形成され、多くの人々が往来し繁栄していた様子が想像できる。
 『大津本・大山縁起絵巻』に龍泉寺(伊勢原市子易)の明治初年頃の寺域の絵図に「染矢時忠墓」の石塔が描かれている。当時のお墓は山津波で失われている。しかし「子易」という地名は、良弁の幼児の頃の話を伝えるもので、近くに這子坂の地名もあり、かつては草堂があり「大山麓子易祖母山子育大日如来」が祀られていた(『相模大山』による)と言われ「時忠・良弁」伝承の真っ只中の土地である。
 以上が『東大寺縁起絵巻』に記される相模国大住郡漆窪、時忠・良弁親子が生まれ育った実家とする根拠である。そして和名類聚抄(承平年間931-938)にある、大住郡国府はこの地とも確信するのである。
如何でしたか?歴史にうとい素人の行き着いた結論ですが、お読み頂いた方々のご意見はどの様でしょうか?
歴史って中々面白いものですね。
 次回は未だハッキリしない相模国の国府は?を、歴史に素人の見聞で追及してみますのでご期待?ください。
あっそうだ!!
 この地域の自然環境・伝説等付け加えておきますが、この地域の注目すべきは花水川流域の金目川、鈴川に挟まれた地域であるので、生活水の水源は二流域を確保し、生活空間の危機管理を備えた地域である事。そして海への交通路を確保し、大磯浜には船着場があったに違いない。そこは古代渡来人が上陸した伝説があり、大磯には高麗山(湘南平)の地名や麓には渡来人が居住していた跡が確認されている。そして花水川を遡り、生活水や稲作に適したこの地、北矢名周辺に住み着いたと推測できる。
 大磯には千手観音観音像が出現し、花水川から金目川源流の蓑毛にある大日堂に五智如来像が安置されているが、この像は五大尊の代替とされていて五大尊は平将門が反乱を起こす際持ち去ったとされる。大日堂を管理している宝蓮寺縁起の記述に基づき、江戸時代に秦川勝の石碑が建てられた。石碑には応神天皇十五甲辰年(284)に秦の子孫が唐から渡来し、当山を安んじて守護し、ここに住んでこの里の名を秦と称した。後の子孫秦川勝と言ったところが書かれている。
 染屋姓についても一言、染屋姓は寺社資料や近世文書などから、近世中期以降、染矢姓に改めていて、神奈川県愛川町半原細野地区に居住している。染矢氏は千数百年もこの地に住み続けた旧家で、戦国時代末期より明治維新まで代々が名主をつとめ、近代でも村長や郡議会議員などを輩出している。
長々と持論を展開して申し訳ありませんでした。


2017年01月09日 [みらい夢]
新年おめでとうございます。頼朝はなぜ鎌倉を目指したのかの解決編です。第一章から第四章までです。

第一章. 謎の人物『染屋太郎大夫時忠』
「源頼朝は何故、鎌倉を目指したのか?」この単純な疑問に答えてくれる解答書はない。吾妻鏡によると「鎌倉は一寒村に過ぎなかった」と記述されている。では何故?と歴史に興味のない私の疑問を解明する事にした。そこで鎌倉時代以前の鎌倉を見ようと、飛鳥(592-710)・奈良(710-794)時代の約200年間を振り返る事にした。そこには鎌倉の街づくりに欠かせない謎の人物『染屋太郎大夫時忠』と出会うのである。

第二章. 染屋太郎大夫時忠とは?
1.『東大寺要録』嘉承元年(1106)に時忠は、漆屋太郎大夫時忠となっていて、姓の染屋は漆部氏からきている事がわかる。
2.鎌倉の時忠邸跡に『染屋太郎大夫時忠邸阯碑』(S14/3・鎌倉町青年団)には
@.藤原鎌足の玄孫で南都東大寺僧正、良弁の父である。
A.文武天皇42(697-707)〜聖武天皇45(724-749)時代の神亀年中(724-728)に至る間、鎌倉に居住し関東八カ国の総追捕使で由比の長者と称する。
B.長者久保(窪)の地名は、時忠の屋敷あと。甘縄神明神社(和銅三年710)は草創が行基、創建は染屋太郎大夫時忠。(行基は鎌倉で名前が出るが、東国に来た事実を示す文献はない)
3.『詞林采葉抄』貞治五年(1366)藤沢遊行寺(1325)の由阿(ユウア1291〜?)編集に藤原鎌足(614-669)の孫の漆屋太郎大夫時忠は、神亀年間(724-729)鎌倉に住み、東国八ケ国の総追捕使として東国の治安にあたるとある。
以上が史料による記述であるが、藤原鎌足の玄孫か孫かの違いがあり、人物の年代を調べると下記のようである。
・藤原鎌足(614-669)55才
・子、藤原不比等(659-720)61才
・孫、四兄弟(680-737)…明らかに時忠(?-728)は孫の世代である。
・染屋時忠(?-728)…時忠邸跡の石碑は誤りで『詞林采葉抄』が正解である。
・良弁(689-774)85才…時忠と良弁の間に不自然さはない。
〔時忠のキーワード〕…漆窪・長者窪(久保)・太夫・白山神社・染屋

第三章.時忠の子、良弁とは?
1.良弁は、金鐘寺(東大寺)(神亀五年:728)と大山寺(天平勝宝七年:755)を創建し、天平勝宝四年:751年・東大寺初代別当となる。大山寺・第三世は弘法大師(774-835)である。
2.『東大寺縁起絵巻』に相模国大住郡漆窪の出身と書かれている。
3.『大山縁起』に鎌倉郡由比郷の漆部氏の人也とある。

第四章.染屋時忠の鎌倉
先ず第一章の吾妻鏡による「鎌倉は一寒村に過ぎなかった」を熟読すると、頼朝の創造する鎌倉の中心地である鶴岡八幡宮や頼朝の邸宅・墓所のある東側一帯は吾妻鏡で言う「一寒村」であったが、現JR横須賀線の西側と南側は当時の近代都市の様相であった。頼朝挙兵(1180)の約500年前の事である。その前に当時の相模国の状況を見てみよう。

1.飛鳥時代(592-710)の相模国
大化の改新(645)、大宝律令(701)などの政治改革が、当時の東端である相模国に及び、以北を蝦夷とよんでいた。朝廷は相模国 を基盤に蝦夷征討を目論んでいて実行したのである。
大化の改新(646)までは国造制の相模国であり三国造で成り立つ。
@.〔相武(サガム)〕…相模川流域の文化。後の余綾・大住・高座・愛甲郡
A.〔師長〕…酒匂川流域の文化。後の足上・足下郡
B.〔鎌倉別(ワケ)〕…後の鎌倉・御浦郡
人口:132,404人、水田:12,920町歩⇔4,651万2千坪
(1町=60歩、1町歩=60*60=3,600歩(坪)108m*108m)
行政制度:国→評→五十戸制から国→郡→里制へ移行
大化の改新(646)律令制の導入で国郡制を布く。
相模国八郡制図
1.足上(アシシモ)郡 2.足下(アシシモ)郡 3.余綾(ユルギ)郡 4.大住(隅)郡 5.御浦郡 6.高座(タカクラ)郡 7.愛甲(アイカワ)郡 8.鎌倉郡
相模八郡図
国造家の子弟を大王の親衛隊に提供、その親衛隊が八世紀では舎人の前身で、国造は「直」(アタエ)と言う姓を賜り、東国と大和朝廷のつながりは強いものがあった。『相模国封戸祖交易帳』天平七年735(正倉院文書)では、相模国内封戸の祖額は八郡六十七郷の千三百戸、1郷50戸として26郷が封戸にあてられていた(相模国総生産の約40%を納税)…朝廷は相模国の納税・兵役拠出で成りたつ。

2.鎌倉郡と染屋時忠(?-728)
700年前後の鎌倉を現在の地図に併せて眺めた図である。鶴岡八幡宮(1063源頼義)は目安としてあえて記載した。
@.鎌倉周辺の重要な遺跡として上郷深田製鉄遺跡・池子野鍛治遺跡・鎌倉郡沼間郷遺跡があり、稲村ガ崎や由比ガ浜の砂鉄を 使用した製鉄工場がある。渡来系の秦氏を配下に製鉄・織物産業、染屋氏家業の漆産業等一手に手掛け多大な財力を得ていた。
A.鎌倉の鬼門ラインの稲村ケ崎白山神社・北鎌倉白山神社・上郷深田製鉄遺跡が直線上にあり明らかに鬼門除けを意識している。
B.時忠の居住地等であろう字名の漆窪・長者久保(窪)は、栄区上郷町にあり,上郷深田製鉄遺跡を流れる、いたち川の源流部位置し白山神社も鎮座している(境川〜柏尾川〜飯島川〜いたち川の水系)。古書は井出立川とある。
C.神武寺(724行基)、長谷寺(736徳道)、杉本寺(734行基)、東国総国分寺として聖武天皇の勅で行基が回帰した清浄泉(737時忠)などが建立されていた(岩殿寺・延命寺・法勝寺・星井寺・満福寺など)
時忠の鎌倉
D.神社等として甘縄神明神社(710時忠)、御霊神社、佐助稲荷、荏柄天神社、元八幡宮、八雲神社統など。
E.ここに面白い事実が発見されている。後の鎌倉時代に鎌倉の大仏が創建(1243)されるが、何故長谷の地に創建されたか?図の鬼門除けラインの左下、ライン上に鎮座されている。これは鎌倉幕府が鬼門除けに大仏を長谷の地に創建したのだ。なんと大仏位置の疑問も解決した。

3.大都市「鎌倉」
如何であろうか?現在の御成小が鎌倉郡衙跡で、半径4kmの範囲内にこの様に諸施設が造られ、活発な生産活動が行われ、近代的な大都市の様相であったに違いない。とても吾妻鏡の言う「鎌倉は一寒村に過ぎなかった」の記述で、後の人々の認識が間違いと判明した。この鎌倉の実態を知れば、誰でも鎌倉に政権を樹立しようと思う。そして前述したが『相模国封戸祖交易帳』天平七年735(正倉院文書)は、他国には類例が無い貴重な史料で、相模国内封戸(フコ)の租の額を給主別に書き上げ朝廷に報告したなかに、八郡六十七郷のうち千三百戸、すなわち1郷50戸として26郷が封戸にあてられていた。実に相模国の総生産の約40%を貢進(納税)していた。又、西国の防衛(大宰府)や蝦夷征討(金を求めて)の基地として、兵役の負担もする朝廷にとって相模国との繋がりは最重要であり、相模国の実力は飛び抜けて良かった。この事が後に天皇を中心とした中央政権を崩壊させ、東国政権成立の東国武士団の発生につながるのである。いや〜歴史って面白いですね!

4.最後に頼朝が鎌倉を目指した理由を纏めてみました。
@.鎌倉は既に製鉄・織物等工業都市として、周辺には境川水系の公田を中心に稲作も栄え繁栄していた事。
A.平家政権の失敗を見て、天皇が居住する京都と離れた地での政権を考えた事(天皇家に利用されない為)
B.河内源氏棟梁、源頼義(988-1075)が前九年の役の戦勝を祈願した、京都の岩清水八幡宮護国寺を鶴岡若宮(鶴岡八幡宮)として勧進(1063)した、源氏ゆかりの地である事。
C.良く言われる、三方(東・西・北)を山に囲まれ、南は海岸であり自然の要塞都市構造を呈している。また海に面して海上交通(港)を利用できる事。
D.鎌倉は原始、海底であり隆起した水成岩(軟らかい)で構成され、簡単に掘れて鉄を採取できた。海岸線の砂鉄も含め、重要な製鉄産業に適していた事。

いや〜素人が調べるには、気力と体力が必要ですね、疲れた〜。















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