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山木兼隆研究会

1.山木兼隆研究会 発足

 2022年はNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放映され、鎌倉・伊豆韮山に注目が集まり、コロナ渦中でも大賑わいであった。頼朝蜂起の初戦、伊豆国判官山木兼隆館を夜襲し、兼隆・兼光(嫡男)・堤信遠の三名が討死する。大河ドラマでは第四話で放映された。この判官山木兼隆は、頼朝と同じ京から伊豆へ流された流罪人であり、約1年半頼朝とは隣人の関係であった。隣人を討った頼朝の心境は?
 この山木兼隆なる人物こそ、「八巻」一族の始祖と比定されている人物である。しかし判官兼隆は、地元韮山山木の皇大神社に神として祀られているが、風評では憎き平氏の悪代官とされている。何故だろうか?この認識の違いを究明し、判官兼隆の実像に迫る為、研究会を立ち上げた。

兼隆公

2.「新・八巻一族の歴史」 注文方法

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新・八巻一族の歴史

3.「新・八巻一族の歴史」 驚く新説とは?

1.頼朝の命を救ったのは誰?
 平治の乱で頼朝は、頼盛配下の平宗清により捕縛された。頼朝の命乞いは『吾妻鏡』の叙述から池禅尼(清盛継母)や由良御前(実母/熱田神宮家)の嘆願とされているが、平治の乱まで頼朝は上西門院蔵人(警固武士)であり、この上西門院(後白河天皇実姉)の意向と見るべきである。

2.頼朝と判官山木兼隆は親友か?
 頼朝、文覚、信兼(兼隆父)は、上西門院衆(警固武士)で、現代風に言えば職場の同僚であった。特に信兼は大先輩の立場であった。この三名は同時期京から伊豆へ流された流罪人であり、特に頼朝と判官兼隆は、それぞれ蛭ケ小島と韮山山木に居住し隣人として約1年羽半過ごしていた。従って頼朝は上西門院衆でお世話になった信兼の子息兼隆とは親しく親交していた。少なくとも家族のいない頼朝は、兄的存在であったと思われる。治承4年6月29日、流罪人兼隆が伊豆国判官に任官され、頼朝や時政等は驚愕したに違いない。
※.下図参照。 画像選択→大画面へ。



頼朝の命

3.兼隆館夜襲の謎?
T.『吾妻鏡』の夜襲再現
 治承4年(1180)8月17日条の兼隆館夜襲の叙述から、忠実に時系列・進軍経路を再現したものである。『吾妻鏡』には、夜襲軍の構成は記載されず、8月20日湯河原土肥へ出陣する各豪族名が46名記され、これをもって夜襲軍としている。『吾妻鏡』の謎の一つである。
※.下図参照。 画像選択→大画面へ。

夜襲の謎T

U.『吾妻鏡』の謎?
 『吾妻鏡』には、物理的に不可能な夜襲の叙述が多々見られる。これらの不可能な夜襲の実態は有り得ない事例であり、特に佐々木兄弟の遅参の原因(鞠子川/酒匂川の増水)や長時間にわたる激戦の結果、兼隆・兼光(嫡男)・堤信遠の家長三名のみ討死とは考えられない。
 以下に記された謎から夜襲などなく、三島大社大祭の祝賀に時政館へ家長を招待し、撲殺か襲撃されたと考える。『愚管抄』慈円は中世一信頼おける史料とされるが、夜襲の叙述は一切記されていない。
※.下図参照。 画像選択→大画面へ。

夜襲の謎U

4.新聞掲載記事(画像選択→大画面へ)

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八巻里

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